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    東京・練馬のアロマテラピーの店キルケ店主のブログ

    新盆のお供え物

    皆さま

    こんばんは。

    お盆は皆さまどう過ごされましたか?

    キルケ店主の実家の新盆は茶の間をゴミ屋敷同然のところを綺麗にして住職に読経していただくため、料理まで出来ず、父もかつてお世話になっていたお弁当屋さんにお供え物用のお弁当を注文しました。お酒も一緒です。

    お供え物

    父念願の帰宅でしたから普段は注文しない彩りよいお弁当「花見山」とお酒で喜んでくれたと思います。
    写真には撮りませんでいたが、読経中は草餅とお茶をお供えしておりました。

    住職ご持参の鐘の音が父の慶ぶ声に聞こえました。

    キルケ店主 佐々木

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    さよなら(涙)中合デパート&ホテル辰巳屋

    福島市を知る皆さま

    こんばんは。

    この久々の夏休みは法事もあり長めに福島に滞在している為、幼少期の福島市の繁華街を思い出してます。昭和40年から50年代。キルケ店主が小学生の頃。東北新幹線も無い時代。母の実家の生花店は華道教室を柱に学校、病院、飲食店、役所、冠婚葬祭斎場、個人のお客様からの御用命で大変繁盛しておりました。県庁、福島交通バスターミナルに近く、福島市の商業の中心地で大変賑やかでした。

    私は人や自家用車、バスだけでなく路面電車の最後の往来も見られた世代で、地方都市の街中文化を楽しめた最後の世代ではないでしょうか。

    当時の子どもの一番の贅沢な楽しみは中合デパートの屋上の遊園地で遊び、同デパートの食堂でオムライスとココアフロートを注文してもらうことでした。この世にこんなに美味しい食べ物や飲み物があるんだと最初に知った場所で、やっぱり中合は凄い!と子ども心に感心したものでした。

    そうそう、クリームソーダやミルクセーキも良く注文してもらったものでした。ふふふ。

    オジマパン屋さんも中合(以前の大町の場所)に近く、今もその当時のまま変わらないメニューと味を提供してくれて、有難いことです。今もちょくちょく伺ってます。

    東北新幹線が開通されることが決まると中合デパートはJR福島駅東口前の辰己屋ビルにに移転。明治に料理店からスタートしたホテル辰巳屋が同じビルに入り、吾妻連峰を見渡せるレストランが自慢の老舗として人気でした。私は福島市に実家があるので、宿泊する機会はそうそうないのですが、東京でサロン運営をしていた頃、父が大原綜合病院でガンの手術をする前日などに何度か宿泊しました。朝食しか頂いたことがありませんでしたが、吾妻連峰の素晴らしい景色と美味しいアメリカンブレイクファーストに心配事も吹き飛ぶほどでしたし、接客も老舗ならではの心を尽くした素晴らしいものでした。

    その時折の流行も取り入れながら魅力的な料理を提供してくれました。最後は定番のアメリカンブレイクファーストで。

    朝食1朝食2パンケエキ朝食4

    レストランからの眺め

    眺望

    吾妻連峰

    しかし、東日本大震災と原発事故で福島市の商業全体も致命的なダメージを受けてしまいました。もちろんそれ以前からのリーマンショック以降の不況の影響も大きく、根本的な赤字からの回復は大手デベロッパーも参入しての再開発に期待するしかないらしいです。

    福島市のランドマーク、ノスタルジックシンボルとも言うべき中合デパート、ホテル辰巳屋が近く閉店、解体されるという。辰巳屋さんはこの8月いっぱいで閉店と知り、一泊し朝食も頂きました。なくなってしまうとは本当に寂しいです。

    エントランス
    激しい揺れにも耐え、改修されながら利用客が行きかったエントランス

    でも、コンセプトに何とか昔からの良さを残して再開発後の復活をお待ちしてます。震災後の大変な8年間ありがとうございました。お疲れ様でした。またもどってきて下さい。

    キルケ店主 佐々木

    追記

    高校生の頃、中合さんには学校新聞に良く広告を出していただきました。
    大変お世話になりました。

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    父の他界と新盆に思うこと

    皆さま

    こんにちは。今日はウケ狙い無しの真面目でしんみりしたキルケ店主ですが、よろしければお付き合いください。

    今年は父が他界して我が家初の新盆となります。

    昨年の今頃の父は寝ていることが多くなったものの元気にグループホームで生活しておりました。月に一度私と弟が面会に行くと必ず施設の方に「うちの娘と息子です。」と紹介しておりました。
    ちょうど昨年の今頃だったと思います。私と話をしていると「家に行きたい。少し居たらまたここに戻って来ればいいから。」と言って私が慌てたことを最近思い出してます。「おれはここでいい。」と言っていたのに急に家に帰りたくなったのかと、施設の方に家に帰りたくなったみたいなので、長居しないで少し早めに出ますと言って弟を連れて逃げるように出てきたこともありました。

    昨年の私は福島に帰省するとほとんど分刻みの勢いで父母弟の介護や自立支援のマネジメント関係の方々、保険会社の方々と契約内容の変更などで時間を取られ、家族の気持ちに十分に寄り添うことまでは出来ませんでした。父を家に一時帰宅させるにはそれなりの準備、人手が要り、私ひとりで障がい者の弟と認知症で足腰が弱った父を同時に世話することは出来ないからです。
    「お父さんの介護ベッドも今は返してしまったし、段差もあって今のお父さんが行くとなるとすぐには準備が出来ないんだよ。今回はダメだけど、今度ね。」と言って誤魔化しました。父は「そうか。」と残念そうに言いました。

    それから夏が過ぎ、秋に私が旅先で右腕を骨折して間もない頃に父の施設の料金改定の説明会に出席し、腕を三角巾で吊って父に会うと酷く狼狽し「がっかりしちまった。」と言うので、「今は超音波治療と言って骨折が3、4割早い期間で治せる技術があるし、リハビリも早い時期からどんどんやるようになっているから大丈夫だよ。すぐに治るよ。」
    と半分は痩せ我慢でしたが、私自身に言い聞かせるように父に言いました。
    そのあと、施設の計らいでお昼ごはんを一緒に食べ(本当はまだ味覚がない状態でしたが)「美味しいね。一緒に食べるの随分久々だね。」と他の利用者さんたちとも和気あいあい、良い時間を過ごさせていただきました。それが生きている父に私が最後にしてあげられた唯一父が喜ぶことでした。

    グループホームで 昨年7月18日 グループホームさんで手作りしそジュースをいただく父

    思えば約3年前、父をグループホームに入所させることを父に黙って決めて病院から直送し、またすぐに戻るからと嘘をついて置いて来た私でした。もう2度と父が自宅に戻ることはないだろうと思うと出先にもかかわらず涙が込み上げてくるのをなんとか堪えながら仕事をすることもありました。

    しかしながら、今、父の新盆を迎えようとしています。父待望の帰宅。最も長く家族と過ごした茶の間を綺麗に掃除して、最後何も喉を通らなくなり食べたくても食べられなかった桜もち、かぼちゃの煮物、まぐろのお刺身、ビール、日本酒などを用意して迎えようと思います。また、孫のように可愛いがっていたマルチーズのペコの大好物、しめ鯖^_^も一緒に。

    peko        ペコと29歳の私 実家のコタツで 

    ペコへ

    お父さんが迷わないように連れて来てね!

    キルケ店主 佐々木

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    「がんばったよ」が胸にこたえるとき

    皆さまへ

    こんばんは。今日はしんみり、まじめな話です。

     私の月いちの福島通いはアロマテラピーサロン キルケ運営中から始まってましたからもう7年になります。父と弟の精神科の担当医師から二人での通院はもう困難だから誰か福島在住の親戚の方でも付添い人を付けたほうがよいと言われ、そんな困難な仕事は私くらいしか引き受け手がいないので私がやるようになりました。父は障がい者である長男(私の弟)の成年後見人だったのですが、入院を繰り返すたびに認知症が進んで病院の予約の日やお金の場所などを忘れることが多くなっていました。
     私は仕事だけでいっぱいいっぱいでそんなことは医師から電話で忠告されなければ分かりませんでした。たまに帰ったときはまだ普通に生活できているように見えていたからです。
     しかしさすがに父が今までとは違うと思ったのは腸閉塞の手術をした後でした。退院が決まると自分で荷物をまとめて身支度も整えて私の到着を待っていたものでしたが、このときは何もできていなかった。まだ入院していてもおかしくないと思うほど弱っており、何をどう準備したらよいかも分からないで「今日退院なのか?」と私に聞いてくるのでした。そのときから私は毎月福島に通うことを決めたのでした。
     二人の病人かつ介護や支援が必要な家族を連れて病院に行くことは決して簡単なことではありませんでした。しかし、1年、2年と経過するにつれてそれなりに慣れて、病院の方々も「大変だね。」と言ってサポートしてくれるようになっていきました。父も頭が冷静なときに、自分がまだしっかりしているうちに長男の成年後見人を私に委譲する話に同意し、数ヶ月かかって手続きが完了し私に成年後見人が委譲されました。裁判所が認める要件のひとつに毎月福島に通うということがありました。この時点で私は何があろうとも万難を排して福島に通うことを義務付けられたといっても過言ではありません。
     さらに月日が流れ、父は介護サービスを弟は自立支援サービスのヘルパーさんに自宅に来てもらい、通院の付き添いと食料品、日用品の手配は私がやるという生活が数年続いてそれなりには安定していたと思えていた頃に父が自宅玄関で転倒し腰椎圧迫骨折で入院、そのまま認知症対応型のグループホームにお世話になりました。弟(統合失調症と糖尿病持ち)は父が長い入院に入ったとしか思ってなかったようですが、あえてそう思わせておきました。初めは施設の方々にかなりの苦労をかけた父でしたが、つい昨年あたりに、「おれはずっとここでいいぞ。」と言うくらい馴染んで楽しく暮らせていたようです。毎月一度は私と弟が訪問していたことも安心だったのかもしれませんが。
     しかし、昨年12月にその施設で転倒し右大腿骨転子骨折で手術したのをきっかけに私は実家に近く、病院が母体の施設へ転所が実現できることになり、お世話になったグループホームを退所させました。新しい施設も馴染めるようにかなりの努力をしてくださいましたが、骨折のダメージはじわじわ来ていたのでしょう。肺炎を発症し、私がその病院に呼ばれました。父はあと数週間しか持たないことを告げられました。実家でお世話になっている母のいるところからも弟の病院からも近く、JR福島駅からも近い便利な病院併設の施設でした。私の右腕骨折のダメージもつらい時期でしたが、それも返上してせっかく手続きが通った施設でしたから、もう1年2年はここで穏やかに過ごしてほしかったというのが本音でした。
     若い頃の父は暴君で嫌いでしたが、最後はすっかりいい人になって逝きました。仲の悪かった母(慢性心不全持ち)も住まいから近いので何度も見舞いに行って昨日まで一緒に住んでいたかのような会話をして笑っていたようです。死が近づくとそんなものなのでしょうか。父にとって最も良いお土産になりました。

     先日5月の弟の通院の付き添いが楽になって久しいなと思いました。その病院の精神科の看護師さんも長く父や弟をみてくださっている方で「娘さん、頑張ったよ。」と私に近づいてこられ、そう言ってくださったとき不覚にも胸にこたえ、熱い物が込み上げて来ました。

     今年4月に父の医師からもうお迎えが近いことを告げられたあとは私から父に「頑張ったよ。」というと「お前がか?」というので「お父さんが頑張った。」本当はずっと自分の家に居たかった、家族と過ごしたかったこと諸々我慢してきたことを思いそういいました。父は右目からポロリと涙をこぼし、それを私に見られて照れたのか自分の右手でさっと拭き取りました。まだそんな力は残っていました。
     若い頃は家族を省みず、やりたい放題の父には本当に苦労させられましたが、言葉と香りで送りました。

    キルケ店主 佐々木

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    上野千鶴子先生の東大祝辞に私もアジテートされて

    皆さま

    これまでの記事と全くテイストが違う記事ですが、もしよろしければお付き合いください。

    バブル期に大学生だったキルケ店主が大きな影響をうけた先生のひとりである上野千鶴子先生の東大祝辞についてさまざまな人たちが批判も賛辞も書いておられます。当時から今日に至るまでフェミニストについて語ること、フェミニストであることを語ることを周囲の空気を悪くするとみなす男性社会というヒエラルキーの上層部の方々から容赦ない攻撃を個人的には受けながら、公的な場では時には避けながら生きてきた者の一人として思ったところを書いていきたいと思います。それほど上野千鶴子氏の祝辞がすばらしく、アンチ上野アカデミズムの方々でさえもエールを送っている歴史的にも注目すべき出来事と思うからです。

    まずはインパクトのある上野先生のメッセージを紹介し、思うところをその下に書いています。

    ○がんばってもそれが公正に報われない社会があなたたちを待っています

    報酬だけがすべてではないから人は働くのですが、労働の重さと報酬があまりにかけ離れていくようになってから久しく、バブル崩壊、リーマンショック、震災、原発事故を経てもなお、その不幸なこの国のシステムが改善されることがありません。本来なら団結すべき不遇な労働者は疲弊して生活に追われ思考が停止したまま選挙で誰に投票すべきかも分からない、投票をしないことがなおもこの国の不幸なシステムを強固なものにしていることに気づかない、また、気づいても疲弊して行動に繋がらないという気がします。経済的、生活的、精神的に余裕がある人たちは今も啓蒙活動や抗議行動を続けていますが、少数派です。

    ○恵まれた環境と恵まれた能力とを、恵まれないひとびとを貶めるためにではなく、そういうひとびとを助けるために使ってください。そして強がらず、自分の弱さを認め、支え合って生きてください。

    上野先生は東大で教えた先生の一人としてご自身ももちろん含めて恵まれた環境に生まれ、恵まれた能力を持っているという認識に立っています。その上で東大生に恵まれない人たちを助けるために能力を使ってほしい、また、どんな人であろうと弱さを持つのだから支え合い生きてほしいと呼びかけています。しかし、某テレビ局に出ていた東大出身の若く美しい女性コメンテーターは個人の意見ではなかったかもしれないですが、「上野先生も恵まれていることがラッキーなんだというほうにフォーカスしたらいいと思う」などとあまりに愚かしいコメントを残しました。また、女の幸せとはと東大出の女性に聞いてみたかったといわれ、「やはり好きな人と結婚して子供を持つことじゃないですか。」とそもそもその質問が人としての幸せとしたほうが良いのではと切り返さないことに強い違和感を覚えました。今や産む性としての女性だけではないし、同性のパートナーもありうるという時代になったというのに。さらにこの答えは結婚できない、子供が産めない女性や結婚できない、子供が作れない男性の人生の価値さえも否定してしまいかねないものと思えます。もしかすると、アンチ上野のスタンスで仕事をしてきたテレビ局の方々もこのメッセージの強さに脅威を感じてあえて用意した台詞ではないかとさえ思えました。

    ○女性学を生んだのはフェミニズムという女性運動ですが、フェミニズムはけっして女も男のようにふるまいたいとか、弱者が強者になりたいという思想ではありません。フェミニズムは弱者が弱者のままで尊重されることを求める思想です。

    このメッセージは上野先生の長いアンチフェミニズム論争の中で洗練され、研磨されたあらゆる立場の人が敵意を持つことのないフェミニズムのイントロダクションと思います。先生、70歳にして人の欲するところを知る境地ですかと聞いたら怒るでしょうか。

    ○大学で学ぶ価値とは、すでにある知を身につけることではなく、これまで誰も見たことのない知を生み出すための知を身に付けることだと、わたしは確信しています。知を生み出す知を、メタ知識といいます。そのメタ知識を学生に身につけてもらうことこそが、大学の使命です。ようこそ、東京大学へ。

    この結びも感動的ですばらしかったと思います。どんな思惑があろうとも上野氏を祝辞の壇上に招いた東京大学のスタンスもまたすばらしかったと思います。

    最後にもうひとつだけ

    「東大には今でも東大女子が実質的に入れず、他大学の女子のみに参加を認める男子サークルがあると聞きました。わたしが学生だった半世紀前にも同じようなサークルがありました。それが半世紀後の今日も続いているとは驚きです。この3月に東京大学男女共同参画担当理事・副学長名で、女子学生排除は「東大憲章」が唱える平等の理念に反すると警告を発しました。」

    このメッセージについてだけは上野先生に反論を申し上げたいと思います。学術的なサークルでなければ仕方がないかと思われます。私は日本大学法学部出身ですが、日大のような「平等の理念」などあるのかどうか分からない大学だからといわれればそれまでですが、実質的に日大女子は入れず、他の女子大のみに参加を推進する実質男子サークルが私の時代にもありましたが、男女交際の趣味の領域に入ってしまうカテゴリと思われます。このあたりは好きになるならないがそもそも不平等でないとおかしなことになってしまうものではないかと思われませんでしょうか。皆さまはいかが思われますか?

    キルケ店主 佐々木

    email:lindengreen@nifty.com
    cell phone: 080-6617-4712

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